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イーロン・マスクのすすめ


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2015.02.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | はじめに

日本史11

藤原氏による摂関政治は、あの有名な、「此の世をば我世とぞ思ふ望月の・・・」という歌にもあるとおり、藤原道長でピークをむかえます。

その後、関白は息子の藤原頼通(よりみち)が継ぎますが、だんだん摂関政治のしくみがうまくいかなくなっていきました。

理由は三つあります。

軍事貴族の台頭と、寺社が力をつけてきたこと、そして荘園の乱立です。


まず、軍事貴族の台頭からいきましょう。

これは平忠常(たいらのただつね)の乱が有名です。

あの平将門の乱以来の乱といわれ、実際、忠常は将門の叔父の孫にあたります。

忠常の軍はとても強力で、朝廷からの追討使(ついとうし)をどんどん退けていき、忠常の乱は長期化しました。

そこで登場したのが、源頼信(みなもとのよりのぶ)です。

源頼信は当代一の兵(つわもの)とうたわれた最強の武士でした。

当時すでに63歳でしたが、頼信は忠常の乱を収めることに成功します。

これで源氏の威信が高まりました。

この時代、平忠常以外にも地方軍事貴族は力をつけていて、なかなかコントロールできなかったようです。


つぎは寺社勢力について。

寺社もどんどん軍事力を高めていきます。

そして、朝廷にたいして堂々といろんな要求をぶつけるようになります。

さらには、国司が農民たちに過酷な税をとりたてるため、農民たちがつぎつぎに寺社に保護を求めはじめました。

田畑が寺社のものとなれば、それは神仏に供えるものを生み出す土地となり、朝廷が手出しをできなくなるからです。

このようにして寺社へ田畑を寄進する農民たちが相次ぎ、寺社はますます勢力を伸ばしていきました。


最後に、荘園の乱立です。

寺社の寄進地に対抗するため、摂関家を頂点として上流貴族たちも競って自分たちの荘園を増やしていきました。

そうやって荘園が増えると、困るのは朝廷です。

なぜなら、荘園とは貴族の私有地のことで、不輸の権(ふゆのけん)といって租税が免除されていたからです。

ようは、荘園が増えると、税収が減るわけです。


と、このような理由で、摂関政治が徐々に衰退していきます。

盛者必衰です。


2014.02.26 | | コメント(6) | トラックバック(0) | 日本歴史対策

日本史10


日本史の教科書や資料集を読んでいるとだんだん疲れてきます。

今回は、そんな疲れたみなさんに紹介したい日本史の本です。

どの本も、ちょっと変わった切り口から日本史を学べます。
ぜひ試してみてください。


まずは、こちら。


歴史の裏話が満載です。
見開き1ページで話が完結するので、テンポよく学習できます。
また、内容も、定説にたいして物申す的なものもあり、刺激的でおもしろいです。


つぎに、こちら。


乙女が好きそうなテーマで日本史が語られます。
乙女の人は読んでみて損はないです。
斬新な日本史です。
乙女じゃない人も読んでみて損はないかもしれません。(僕は損しませんでした。むしろなかなか愉快でした)


そして、↑の文学編。


本の著者とタイトルを一致させて覚えるのは大変ですよね。
日本の文豪たちの印象にのこるエピソードが、乙女の視点からたくさん書かれているので、この本を読めば、けっこうすんなり著者とタイトルが頭に入ります。
また、文学の流れも掴めるようになるので、日本文学の全体像も理解できます。
ただ、こちらも負けず劣らず乙女好みの本に仕上がっています。
好きな人は大好きでしょうね。


↑で紹介した本のように、いろんな角度から日本史を眺めてみるのはおすすめです。

教科書の内容も理解しやすくなりますし、なにしろ記憶に残ります。

日本史の起点づくりにどうぞ。


2014.02.21 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 日本歴史対策

日本史9

前回、菅原道真についてお話しましたが、ちょっと補足。

菅原道真の怨霊はとても強力でした。

菅原道真を左遷においやった関係者が次々に病死していき、930年には清涼殿に雷が落ちて、朝廷の重要人物の多くが死傷しました。

これにより、菅原道真は「雷神」と結びつけられ、天神様として各地で祭られていくことになります。

菅原道真を祭る代表的な神社が、前回も触れた太宰府天満宮です。

天神様は最初こそ恐れられていましたが、後世では学問の神さまとして信仰されています。


太宰府天満宮は文字通り、福岡の太宰府にあります。

今回は、その太宰府を襲った海賊、藤原純友(ふじわらのすみとも)と、関東で新皇をうたった平将門(たいらのまさかど)のお話です。


藤原純友は、9世紀なかばの文徳朝の権中納言長良(ごんのちゅうなごんながよし)の子孫です。

伊予(いよ)の国で海賊として政府に反乱しました。
現在の愛媛県です。


同じごろ、関東では桓武天皇の血をひく平将門が政府に反旗を翻していました。

平将門はその強力な武力によって坂東八国を統合し、自らを新皇(しんのう)と称しました。

新皇とは、京にいた天皇にたいして新しく位についた天皇という意味です。

大胆不敵ですね。


この二人の反乱を、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)といいます。


藤原純友も平将門も、おたがい武力にものをいわせるタイプでした。

なので、承平天慶の乱のあと、日本は武力を重視するようになります。

乱を鎮圧するために、より強大な武力が必要になるからです。

ここらへんから武家社会の兆しがみえますね。


道半ばにして討たれた平将門は一遍の怪異譚を生んでいます。

平将門の首が夜に空を飛んだというのです。

どうやら自分の体を見つけて、また戦をしようとしていたそうです。

しかし、平将門の首は途中で力尽きて落っこちました。

平将門の首が落ちた場所は、将門の首塚や墓所として関東各地にのこっています。

一番有名なのが、東京都千代田区大手町の将門塚(しょうもんづか)でしょう。

将門塚では、怖い話をたくさん聞きます。


2014.02.21 | | コメント(0) | トラックバック(1) | 日本歴史対策

日本史8

今回は菅原道真(すがわらのみちざね)についてです。

菅原道真といえば遣唐使の廃止ですね。

630年からはじまり、894年に菅原道真により廃止されるまで、およそ150年間ずっと続いてきた遣唐使。

長いあいだ唐から進んだ文明を取りいれることに一生懸命だった日本が、これから我が国は大陸に頼らずに独自でやっていける段階に達したという、重大な決断をくだしたわけです。
その判断をしたのが、菅原道真。

超重要人物ですね。


彼は、宇多(うだ)天皇の信頼にとても信頼されていました。

宇多天皇は藤原氏の摂関政治に頼らず、自分で政治をやっていく親政(しんせい)をおこないました。
その際、相談役として菅原道真が重用されました。

なので、もちろん藤原氏からは評判がよくない。

このときの藤原氏の氏の長者は藤原時平(ふじわらのときひら)です。

菅原道真は学者出身でしたが、最終的に藤原時平と同じ地位にまでのぼりつめます。

まさに時代の寵児としてもてはやされた菅原道真。

しかし、その栄光は長く続きませんでした。


宇多天皇は親政路線を定着させるために、まだ13歳の皇太子に譲位をしました。

この譲位についても菅原道真と相談して決めて、藤原時平は蚊帳の外だったといいます。

怒った藤原氏の面々は仕事を一年近くボイコットしたそうです。
不満たまりまくりです。

そして、ついに藤原氏の不満が形になります。

菅原道真は突如として太宰権師(だざいのごんのそち)にひきずり降ろされてしまったのです。

きっかけは、宇多天皇が出家して法皇になったからです。
宇多天皇が法皇になって現実政治から手を引いたため、菅原道真は後ろ盾を失ってしまいました。

菅原道真は失意のなか、年少の男女とともに船で大宰府へ左遷され、そのまま現地で亡くなりました。


菅原道真を祭神として祭る神社として有名なのが太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)ですね。

福岡県太宰府市にあります。
初詣には全国から200万人以上の人々が訪れるそうです。

僕も何度か行ったことがありますが、見どころはスターバックスです。

とてもユニークな内装で、ちょっとほかのスタバでは見られません。

もし太宰府天満宮を訪れる機会があったら、ぜひスタバで一服してみてはいかがでしょう。



2014.02.20 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 日本歴史対策

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